TOP PAGE ↩️

 

 

今回は

・弓月君(ゆづきのきみ)= 秦氏 = ユダヤ人 = 日本人

 

について考察してみたいと思います

 

 

失われた十支族の一つ か 複数かは謎なのですが、

まあ十支族のうちの一族である

 

弓月君は西から来たとされているのですが、

 

どうもそれは

キルギスあたりとされていて

 

ヤマトうという地名とか

 

絹での交流の後とか

 

ウエサクという渓谷名が 京都のウエサク祭ともかぶると指摘されていたりと

 

多くの類似点を持つということで

断定はできませんが

 

少なくとも通ってきて

少なからず滞在し 文化発展に寄与したのでは!?

というのは推察に足ると思われます

 

 

で、最初に日本に来たのは

 

新撰姓氏録しんせんしょうじろく』によると

 

応神天皇の父とされる仲哀天皇の御代に

融通王(ゆうずうおう)の父である功満王(こうまんおう)が日本を公式訪問したと

いうのが(西暦319年)くらいっていうのがあったり

 

 

弓月君は始皇帝三世孫、孝武王の後裔である

とあり、

 

 

一時は

秦の皇族と血縁関係を持って

繁栄もしたのだけど

 

劉邦により滅び

 

穏やかな生活は維持されない環境となったので

再び約束の地とされる東へ 日本に向かったんですね

 

 

でまた

 

 

弓月君(ゆづきのきみ)は、

日本書紀応神紀の記述によると、

秦氏の先祖とされる渡来人である とされていまして

 

 

そこには

 

弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していた

応神天皇14年に功満王の子、弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏

4応神天皇168月、弓月君の民が渡来。

 

とかありますので

 

応神天皇の御代は 宮内庁発表の天皇系図によると

(まあ あてにならないですけど)

270年から310年とされています

 

 

また百済の建国というか中央集権的な国家の出現は4世紀半ば以後のことと見られているので

だいたいその270年頃から その後200年以内にかけて

来たのではと推察されます

 

 

まあ、

 

これらが本当だとして話を進めますと

127県の人々18,670余人もの民を率いるっていうのは

まず並みじゃない大世帯になりますので

 

 

日本に到着した後は

 

先に到着していた

イスラエルの部族が天皇に近かったか

 

天皇と血縁を結んでいたか

開国の祖になっていたかと言ったこともあり

同族として暖かく迎え入れられたのでは!?

 

 

ということも推察されますし

 

この頃には中国初代統一皇帝 秦の血縁として取り入った跡が

秦氏という性からも納得がいくものになると思います

 

 

・秦氏

 

そして その秦氏は

西から流れてくる際に培った 知識・経験・財産 等活かしたりして

産業では絹の殖産につとめ財を築き

雄略天皇の御代においては、酒公(サケノキミ)が絹綾錦の類を夥(おびただ)しく織りだして朝廷に献上し、

絹綾錦布が山のように積み上がったので、天皇は喜んで

秦酒公(はたのさけのきみ)に“うずたかく積む”の意をもつ『禹豆麻佐』(ウズマサ)の姓(カバネ)を贈った」

 

 

という感じで

京都の太秦あたりの土地を与えられ その辺りに定着していったのでは!? とみられます

 

 

これにちなみ

太い秦と書いて「太秦」の漢字表記を当てたという説が

太秦の地名の起源説としてあるので、

 

 

まあ、絹の事も 繋がってきますし

そういった事なんだろうな~ と思います

 

 

で、時が移って

聖徳太子の頃には

秦氏族長と見られる 秦河勝が太子を守り

もののべのもりやを切ったり

 

文化貢献では広隆寺 建立したり 西から運んできた像をおおさけ神社に収めたり

政治的にも太子の側近であったということもありますし

 

秦氏一族は

太秦村誌によると

欽明天皇の頃、戸籍にある秦氏の戸数

7053戸に及ぶより見れば

その勢力侮るべからざることを知るべし

 

とあり

 

欽明天皇の御代は539年から571年までとされるので、

 

その頃には

絹産業での蓄財も凄かったでしょうし

政治、文化の面でも超権力を握っていただろうことは

容易に推察できます

 

また秦河勝については

大避神社(ダビデ神社)に祀られていて

そこには天使ケルビム(智天使)の像とされる舞楽面(ぶがくめん)があり

ダビデ王リスペクト=イスラエル系でありキリスト教徒であることが判るとされていたりします

 

 

そして長岡京や平安京を作っていく際には

財を惜しみなく使ったという事もあり

 

 

そこから推察するに

 

いつもの様に

 

天皇家系に 自分達一族出身であるものが 嫁いだり 縁組させていたのでは!?

 

とか

 

同じイスラエル系の天皇家だし と言ったことがあったからでは!?

と思います

 

 

・大陸を駆け巡った方法

 

ここからは

全て推測の域を出ないのですが

 

百済を通る際にも

今まで通ってきた大陸の国々においても

絹産業で得た富もそれなりにあったのでは!?と思いますし

ある程度は富を運んでいないと ただの流民扱いされ酷い扱いを受けてしまいます

 

 

特に一族の安全を守る必要がありますので、

そういうことを成立させる為には

 

 

例えば

混血している女性って凄く美しかったり、

 

男の心をくすぐるものになりますから

一番の美女を その土地土地の王に捧げる とか

族長の娘を嫁がせて婚姻関係を結び その土地の王の義理の父になったりすることで

 

権力的にも守られますし、

安全も確保できるかと思いますので

 

そういった感じで

百済までの大陸を抜けてきたのでは!? という可能性は否定はできませんし、

容易に推測にたるところだと思います

 

勿論 百済でもそのようにして

秦の皇族の血縁も利用したりして

滞在を認めさせることにも成功し

 

ある程度富の分配だったり 文化的貢献もしたり

また政治的にも影響力を持ったと考えられます

 

 

そしてその後、

 

百済が滅んだ際には

百済の王の子孫は

自分たち一族の血 秦氏一族の血も引いているし なんなら

 

大陸の西から通ってきた土地土地の王族の血を引いているので、

その子と天皇家の婚姻が成立すれば

 

 

さらに

 

自分たち一族も繁栄、影響力を持って守られますし、

 

で、

あとは百済の王の一族が

その時の天皇と血縁にあると公にすれば

百済からの移民をまとめるのにも一役買います

 

 

そして

先に来ていた一族の代表であり

その国の王である天皇とも縁組させることで

 

この国においても

安全、信用、権力等 を築いたり と

色々な面において超有益ですから

だからそうした! のでは!?

と思ってしまいます

 

そういった運命と共に

約束の地である日本にたどり着いたのでは?!

と思います

 

 

 

で、最後に

・なぜ秦氏が多く語られないのか!?

 

 

と言ったことに関しては

 

まずは

秦の始皇帝が失われた支族の出 だった場合

そういう者が支那を統一したというのは

中国にとっても 都合が悪いことになりますし、

 

 

日本にとっても

神話から天皇確立まで 大きく関わっているとみられますので

下手したら天皇の存在自体も、建国した人間も

帰ってきたイスラエル部族により成されている ということで、

 

こう言った

 

帰ってきた部族に関わることは

伏せておく必要があり

 

日教組や宮内庁と言った組織は

決してこの辺のことを目立たせない様にしていると感じますし

 

また秦氏が本当に中国人だけであった場合は

もっと秦氏の活躍がプッシュされる様に日教組あたりには

圧力がかかるのでは!?と思います

 

 

全方向にwinwinだから闇にしておきたいんですよねきっと。

 

 

で、日本においても

 

もし、自国民が実は日本人以外に統治されている

イスラエル人に統治されている ということ知ったら

まとまりを持ちませんし、和が乱れる のは推測に足るので、

 

こういったことが漏れてしまうと

 

自分たちの存在すら危うくなる訳ですね

 

 

だから

不都合な真実は蓋しとけ! って言うわけなんですよね。

 

で、

 

ここで

 

自分がなぜ

帰ってきたイスラエル部族というのか!?というと

 

 

実は

・ユダヤ人はもともと アイヌ人!?

 

イスラエル失われた十支族

というのは

 

元は日本を発って

西に向かい 色々な世界各地において

国づくり等行っていったのでは!? と思うんですね

 

というのもYAP遺伝子の残り方から

日本を中心に西へ向かい

 

途中チベットに残りアンダマンに残り

 

で、

西の果てのイスラエルにたどり着き

迫害を受けて離散したが

共にいつか帰る約束の地である

 

東の平安の地

日本を目指したのでは!?

 

 

と推測するので

 

イスラエルにも多少のYAP遺伝子保有者が残った

ユダ族とベニヤミン族が残った のでは!?

と思います

 

 

もし逆にイスラエルが初めからYAP遺伝子を受け継ぐものたちの地だったのなら

あそこは戦争戦争の歴史になりますから、

周辺民族にも受け継がれ

 

周辺諸国の人たちからもYAP遺伝子がみられるはずだ

残るはずだ そう思いますし

 

なぜ!? アイヌ人の90パーセントがYAP遺伝子の血統なのかを考えると

そちらが元だったから っていう事になりますよね

 

 

なので、

 

元々のアイヌ民族というか

縄文時代とされてたりする時代の

 

 

同じ民族が

世界に同じ生き残りの人間はいるのか!?

 

 

とか

他の世界も存在するのか!?

 

 

と、知的好奇心は凄まじいレベルだということもあり

 

部族を二つか まあ何分の1かに分け

 

その旅グループが旅立ち

西へ向かい

 

どこも戦争ばっかりだな~とか、

 

どこも支配する者が悪で嫌だな~ とか、

 

ってなって、

 

西はエジプトあたりで色々な目にあって

迫害を受けて

 

いっ時はイスラエル王国を作るが

南北に分かれ その後また侵攻されて 離散し

離散する際は日本を約束の地として 部族間で道しるべとなる教えや書物を持って

ひたすら長い年月をかけて東へ東へと 出戻って行った

 

 

で、

 

東の端の日本に戻ってきて

 

再び

この地で

合間見え 血縁を持ったりした と言った感じの

そういった話になるのではないかな~!?

 

だから元は一緒だったと思うんですね

 

ということで、

まとめたいと思います

 

 

あくまで自分の推察にすぎませんが、

割と大筋では良いとこ行ってるんなじゃいかな~

と勝手に思っています

 

 

 

 

 

TOP PAGE ↩️